あの日を振り返って 3.11 震災当日

あれから1ヶ月以上、正確には43日目、復興や支援、様々なことが進む中、福島原発は収束が長引いている。

福島出身者の自分にとっては、あまりにも悲痛な42日間。


当日
震災前: 
会社員の私は、中国人スタッフが入国管理局へ行くため休日。ひとり事務所でいつものように仕事中。

震災時:
まさかの長く断続的な地震。
宮城沖地震体験者であっても、動じずにはいられない激しい揺れ。

これは、何かが違う!と、外へ。

たくさんのオフィスビルから、人々がほとんど外へ出ていた。
こんなに人がたくさんいるのかと思うほどの人、人、人。

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余震は続く。
ビルのガラスが波打っていて、今にも割れて落ちてきそう。

ヘリコプターの音が激しくなった。
ビルの脇は高速が走っているが、地震から程なく、通行止め。

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2011年3月11日午後4時過ぎ
右も左も、車はぴったりと止められ、1両も入れない。

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落ち着いたと思ったので、事務所へ戻ると、また余震。

揺れが激しかったので、どうにも仕事にならない。

何度も外へ出たり、戻ったり。周りの様子を見たり。

テレビもラジオもないので、ネットで地震情報を見ているしかない。

17時過ぎ、地下鉄もJRも、足という足はすべてストップという情報。。。

ま、ま、まさか、家へ帰れないの?

そこからは、道路に帰宅組のものすごい人の波が始まった。

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一人でどうするべきか、関西の親会社の責任者も不在。

とりあえず、何が起こるかわからない。

まずは、腹ごしらえだ。


会社の近くの中華料理屋でとりあえず早めの夕食を取っていると、後から後から、人が入ってきた。
中には、明るく酒盛りしている人もいた。

ちょうどテレビがあったので、見ていると、もう、日本の太平洋側で、今まで見たことのないような警報が出ている。

大津波警報って・・・。

一人ご飯を食べながらも、かなりの余震が続いていた。

うそだ・・・、こんなにずっと揺れ続けるのですかっ。

自分も決心した。

仕事どころじゃない。帰ろう。

そこからは、ただひたすら、大勢の人の波と一緒に、家を目指して歩いた。
まさかのヒールだったが、もう関係ない。
スニーカーを買うような心の余裕さえなかったな。

18時過ぎ・・・

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何度も福島の実家に電話したが、つながらない。

携帯も固定も全くダメ。

震源に近かったため、不安に襲われながら、歩くしかなかった。

頼む。
家族は全員福島にいる。
まだ自分はひとりぼっちになる準備はできていない。


実は、歩いている途中で桐乃先生に助けを求めた。
生存は確認できた。透視でわかるのだ。
ご両親はちょうど二人とも外へ出ていたが、もう家に戻っているから、大丈夫、と。

ただ、先生が被災地の他の方の透視もしていたそうだが、その方は海へ出ていたようで、残念だがもう足が見えず・・・。
自分は不幸中の幸いだと。


21時過ぎ・・・

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皇居をぐるっと半周した。

大きな通りを歩いた。

とあるビルでは、会社の方が、
「トイレ使えますよ-!休憩もできますよー!」

と、自社を一般の方々へ開放していた。

コーヒーショップで一休みしたが、

自分とこの人たちとは大きく違う。

自分の実家は被災地で、様子がわからない、ということ。


都心の人たちは、このときは足がなくなっただけで、他は問題がなかった。
だから、不安というよりも、お祭り騒ぎのようにも見えた。

楽しそうに数名で歩くOLさんもたくさんいた。

あの高いトーンで、
「だいじょうぶぅ~?」
「う~ん。だいじょうぶう~」

OLさんの後ろを歩いていた若いサラリーマンが一言・・・。

「ああいう、女の子同士の会話を聞くと、イラッとするんですけど・・・」と、隣の同僚に苦笑しながら話している。

それを聞いて、ちょっと安心。


18時過ぎにオフィスを出て、家へ戻ったのは、23時近くだった。


こうやって、心の整理をしてみた。

誰もが、次へ進んでいかなければ。

前を向いて進むためにも、皆さんにもお勧めします。

記録は大事。


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